江戸・明治・昭和の町家が息づくまちを見守ります
大和高田市本町・市町地区は、1600年(慶長5年)創建の専立寺を中心として発展した寺内町が母体となっています。
専立寺は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属し、ご本尊に阿弥陀如来像を拝しています。
開祖は准如(じゅんにょ)上人。准如上人は1593年(文禄2年)豊臣秀吉の命で西本願寺第12代宗主となりました。
1600年(慶長5年)に専立寺は本願寺直属のお寺として開かれました。そして、奈良盆地南部に置かれた5つの本願寺の掛所(大和五ヶ所御坊)の一つとして、重きをおかれることになりました。
それに加え、この地域に進駐してきた大名桑山氏は、この地で城下町的施政を行いました。古来の農村的な町づくりに対し、商工の町・寺内町として発展することに寄与しました。文化・文政のころには、戸数200余となり、付近村落の経済的中心となりました。
そして高田御坊とも呼ばれる専立寺の瓦が見えるところで商いを行いたいと、各地から商人が集まるようになりました。質屋、合薬屋、古手屋、醤油屋、材木屋、綿屋、染物屋などが軒をつらねていたといいます。為政者が変わることが多かった時代に、安定をして商売をしたいという人々がお寺の庇護にすがったのかもしれません。
当時、礒野屋、中村屋、百済屋、五条屋、狐井屋、吉野屋、新堂屋、奥田屋・穴虫屋など、出自の村々の名を冠する商家が多かったことをみても、この町の成立過程がうかがえます。
赤土家、安川家は、本町を代表する商家でした。そして市町も、表通りに遅れながら町並みをそろえていきました。
大和が、全国有数の綿花の産地であったところから、市町は綿糸、綿布をあきなう商家が多く、江戸中期以後は、村島屋、松村屋、武蔵屋、油屋など、有力な商人が活躍しました。
江戸との大量の取り引き、交通運搬の危険負担、品質の保持など、最盛期には、4万駄(約6,000トン)に及んだといわれる大量の荷と資本を動かすため、株仲間を組織、価格、販売、出荷にきびしい統制をしきました。そして、和州綿の名を全国に高からしめたといいます。
幕末には、薩摩藩が、綿花を目的に、高田に国産会所を設けたことをみても、綿産業の隆盛のほどがわかります。そして、明治には、いち早く、大和紡績工場がこの地に設立されたのです。
参考文献:
平成21年(2009年)3月発行「高田寺内町」まちづくりマップ
旧高田御坊 如意山 専立寺 パンフレット
大和高田市イラストマップ
〒635-0087
大和高田市内本町10-19
TEL 0745-52-5180