江戸・明治・昭和の町家が息づくまちを見守ります
本町・市町地区の実に40%が町家建築(※2011年まちづくり協議会調査)。古くは江戸時代から昭和までの町家が残っています。専立寺の寺内町でありながら、商業の中心として発展したこの地区は多くの商人がいずまいを変えながら仕事をし続けてきました。
軒の低い江戸時代の町家、軒が高くなる明治の町家。そして町家の入り口にシャッターをつけるのが流行ったのが昭和でした。さらにアーケードをつけた商店街が出現し、また時代は過ぎていきました。
このように形を変えつつも時代に順応してきた商人たち。平成から未来へと続く新たな町家の形はどんなところにあるのでしょうか。
町歩きには高田寺内町マップ(奈良県地域デザイン推進課との協働制作)をご活用ください。
PDFファイルが開きます。
本町・市町地区の中心に位置する浄土真宗本願寺派(西本願寺)のお寺です。創建は1600年。表門(東面)は1794年(寛政6年)建立し200年以上経った今も建物随所に施された写実的で緻密な彫刻に圧倒されます。太鼓楼も200年以上前の1786年(天保6年)建立。
残念ながら江戸時代に建築された本堂は1783年(天保9年)に火災で焼失し、現在は対面所(書院)を仮本堂として使用し本尊阿弥陀如来を安置しています。
「七つの子」「赤い靴」など誰もが知っている童謡を作詞した野口雨情。日本各地を旅行しご当地ソングを数多く作曲したことでも有名です。大和高田も何度か訪れ「高田小唄」を作詞、昭和12年にはレコード化もされました。歌碑にある「高田御坊の櫓の太鼓叩きゃぼんとなりぼんと響く」はこの「高田小唄」の一節。生前親交があった安川家所蔵の雨情直筆の掛け軸を写し2000年(平成12年)に歌碑が建立されました。
代々、本町で奥田屋の屋号で大和木綿業を商っていました。1900年(明治33年)に印刷業を開始、1907年(明治40年)には、月間文芸雑誌「敷島」を創刊。
石川啄木が短歌を寄稿、発表するなどしています。『一握の砂』に載せた短歌のうち三首は『敷島』が初出本となっています。
江戸時代の1814年 - 1818年頃(文化年間)に建てられたといわれている江戸時代の町家です。
改造された箇所が少なく、当時の形態を200年経った今に伝えています。
江戸時代末期、尊王攘夷派の志士として活躍した梅田雲浜。雲浜と1855年(安政2年)に結婚した千代はこの村島家出身でした。
2児を授かりましたが、雲浜は1858年(安政5年)の安政の大獄で捉えられ1859年(安政6年)に獄中にて死去。
1872年(明治5年)に京都に女子教育を目的とした女紅場が設立された時には、千代は教師として勤務しました。後に同志社大学創設者の新島襄の妻となる、新島八重子(旧姓山本)もその当時女紅場に勤務しており、協力して女子教育にあたったとのことです。
付書院の蹴込板裏面に「元治元年」(1864年)の文字があります。建造年代は、それ以前と考えられます。片岡邸の建つ市町通りには江戸時代の町家が特に多く残っています。
明治27年にこの地に開設された高田銀行が大正6年に産業銀行高田支店となり、昭和2年5月に本建物が建築されている。昭和3年12月に産業貯蓄銀行に名称変更、昭和11年1月に大和貯蓄銀行高田支店となる。昭和19年4月には銀行合併により、南都銀行高田本町支店となり、昭和47年11月に現在の高田本町支店がある市役所通りへの移転まで銀行として使用されていた。昭和51年10月に(株)サンシ、その後平成3年5月に(株)吉野芦原砕石が所有者となる。大和高田の近代化を担った典型的な洋風の銀行建築です。
(社)日本建築家協会近畿支部奈良地域会主催「奈良の近代化遺産展」に出展。
大正時代を彷彿させる建築様式。宮城医院の書体も右から左へと書かれているノスタルジックな建物で、大正末期に建設され、昭和元年に完成しています。
平成22年3月末まで医院として使用されていました。左官によるアーチや装飾が美しい特徴的な洋館であり、大正時代に書かれた本建物の板図も残されています。
(社)日本建築家協会近畿支部奈良地域会主催「奈良の近代化遺産展」に出展。
奈良県の代表的建築家である岩崎平太郎が設計した昭和初期の洋風建築。現在でも中には螺旋階段などが残っています。
旧吉野銀行高田支店は大正6年より近燐の尾崎邸住宅を店舗としていましたが、昭和8年にこの地に建設され昭和9年2月に開店しています。史料によると、田原本支店の建設と同時期であり、五條支店とも外観の共通性から同一の岩﨑平太郎による設計と考えられます。昭和9年6月の銀行合併により南都銀行高田本町支店となり、昭和10年2月には南都銀行高田西支店と改称、昭和19年4月に場所を専立寺前に移転により廃止、その後この建物は旧近畿相互銀行を経て現在のモリモトデンキと変遷しました。大和高田の近代化遺産として貴重な建築物です。
横大路とは奈良県葛城市長尾の長尾神社から、桜井市を流れる寺川の小西橋までの12.7kmを走る道の名称です。
古代から主要街道として用いられました。西は竹之内峠(奈良県葛城市)を越えて浪速津(大阪府堺市)まで通じていたといいます。
東は長谷寺(奈良県桜井市)を通ってさらに伊勢神宮(三重県伊勢市)まで至り、初瀬街道、伊勢街道、竹之内街道という名前でも親しまれました。
古代、この道を通って河内(大阪府東部)から大和(奈良県大和高田市)に入り、北上して奈良に至ったと考えられ、シルクロードの終着点とも言える道となっています。
8世紀初頭(養老年間)の創建。南面する現本堂は近時の再建で、その左側に鎮守社、右前方に三十三か所の観音堂があります。
寺伝では、本尊十一面観音菩薩像(奈良県指定文化財)を造像したのちに、同材で長谷寺本尊をつくったので、長谷本寺と称したとのことです。かつては高田一面を所領とする広大な寺院でした。
しかし廃仏棄釈によって寺領の大部分をうしない、その間に寺宝・文書も散逸してしまいました。現在は真言宗豊山派の寺院として市内最古の寺院となっています。
天照坐皇大御神(あまてらします すめ おおみかみ、天照大御神)を主祭神として祀っています。
そして、三種の神器の一つの八咫鏡(やたのかがみ)をご神体としています。
江戸時代、約60年ごとに大流行した伊勢神宮へお参りする「おかげまいり」では、多くの参詣者が横大路を通り過ぎて行きました。当時、参詣者へ町人からの施しも数多く行われました。(このことを「施行」と呼びます。)
そして、旅人の安全と町の発展を祈願して町内に多く太神宮が祀られました。
今でも伊勢神宮より神官を年数回お招きして祭事を行うなど、太神宮への深い思いは人々の生活の中に根付いています。
参考文献:
平成21年(2009年)3月発行「高田寺内町」まちづくりマップ
旧高田御坊 如意山 専立寺 パンフレット
大和高田市イラストマップ
コトバンク
平成24年度、奈良県近代化遺産総合調査(大和高田市)
〒635-0087
大和高田市内本町10-19
TEL 0745-52-5180